こんにちは。お久しぶりです。
地震が起きてから、やたらに早寝早起、日中は給水や復旧作業で規則正しい生活をしています。
私のいるところは、4日目に電気が復旧し、断水は今月末まで続くようですが、
海からも遠く高台にあり、被害は少ない地域です。
食べ物は、物資供給の目処がたっていないので、節約はしていますが普通に食べてます。
地震の間、日記を書いていたので、そこから抜粋しながら一週間を振り返ってみました。
長いので、飽きるところまででも、読んでみてもらえたらうれしいです。
■0311/1日目 地震発生友人と温泉に入りひと休憩しているところで、エリアメールがくる。ついに宮城県沖地震が来たのかと思った。
揺れの時間は長かったものの、私たちのいた温泉旅館は、思いのほか揺れは強くなかった(ような気がする)。
少し場所が違えば割れて飛び散ったガラスや照明器具で血みどろになっていたかもしれず、
出口に向かいながら偶然自分たちがいた場所の運の良さに感謝した。
動いてくれた無料送迎バスに乗り込み、仙台駅へ。
2人でワンセグを見ているうちに、段々この地震がすごい地震だったのでは?ということに気づきだす。
(温泉旅館やバスでは情報が入ってこなかった。ちなみに私は仙台でショッピングするつもりでいたくらいだ。)
仙台駅に着くと、ペデストリアンデッキの下に、人がこれでもかという程に集まっている。
交通機関は全停止したようだったので、1時間半かけて友人の親戚の家に歩いて向かうことにする。
途中から雪がどんどん降ってきて、とても寒くて大変だった。
屋内は余震で危険なので、その日は車の中で夜を越した。
浅い眠りの中で、燃える石油コンビナートや津波に流される家などを、カーナビに映るニュースで見ていると、
本当に世界が終わるんじゃないのかと思えて仕方なかった。冗談抜きに日本沈没するかと思った。
県内の96%が停電しているような状態だったので、邪魔するものは何もなく、星が異常にキレイに見えた。
家族とは地震直後には連絡がとれていたものの、その後は携帯は全く使い物にならず、
(携帯電話は171も伝言板も全然繋がらなくて役に立たなかったので電源を切った)
母親の恐らくいるであろう場所は津波や火災のニュースが度々報道され、不安で不安で仕方なかった。
■0312/2日目 母親と合流
朝からスーパーの長蛇の列、全滅した信号機、ヒビや段差ができた道路を見て唖然。
友人宅に移動し、避難所で水と新聞を得て、津波の被害にあった地域の写真を見て絶句。
昼過ぎに自宅に連れて行ってもらうと、意外にも母親が帰ってきており、ようやく合流できた。
母親は津波で避難はしていたものの、早朝に一旦自宅に帰ってきてくれたようだ。
昨日からの不安もあり、無事だったとしてもしばらく会えないのを覚悟していたので、本当にうれしかった。
一番不安な時間、友人とその家族に、本当に助けられました。ありがとうございました。
自宅の有様は散々で、壁に亀裂は入るし、食器は割れ、耐震対策をしていた家具もありえないズれ方をしている。
復旧作業をしながら、地震発生時に家にいなくて良かったのかもしれない、と思った。
壊滅した地域のことを考えると、家があるだけ本当にマシだ、と心の底から思った。
もちろんライフラインは全滅していたので、情報はラジオ、夜はろうそくなどを使った。
また父は懐中電灯が大好きなので、やたらに(本当にやたらに)家にあって良かった。
9時には布団に入り、余震に怯えていたのですぐには寝れなかったが、布団が暖かくて寒さには困らなかった。
■0313/3日目 物資の確保
給水に並びながら、1日ぶりにケータイの電源を入れる。
ケータイは充電が危なかったので、通信状況が落ち着くまで、初日以来電源を切っていた。
やっとのことでメールを受信すると、心配してくれた友人や姉の言葉を初めて見て、泣きそうになってしまった。
通信状況が悪く、また十分な充電もなかったので、結局安否を知らせることができたのはこの日の夜。
(充電は、電気が通った地域のドラッグストアの人が善意で2時間ほどやってくれた)
心配をおかけして、申し訳ありませんでした。
この日も未だライフラインは全滅。
夜、毛布に包まりながらラジオを聞いていると、娘と生き別れてしまった母親の話や、
アナウンサーが泣いているのを聞いて、この地震がかなり酷いものだったことを改めて思った。
明日のことを色々と考えたら何故か動悸が酷くなって、なかなか寝付けなかった。
■0314/4日目 祖父母宅の片付け
朝にわかしたお湯で髪を洗ったら、非常に気分が良くなった。
お風呂関係はあと回しとはいえ、気分が全然違う。
大量のゴミ出しをしたあと、祖父母宅に向かう。途中で津波警報があり、一度は引き返す。
祖父母宅に着くと、思っていたよりも祖父母が元気で安心する。
タンスへの耐震対策や、物が多すぎるなど、言いたいことはやまやまだが、
惨状としかいえない部屋を母と2人で1時間以上かけて何とか片付けた。
祖父母の言動にも疲れ、持病のある腰も痛くなってしまって、1部屋片付けるので精一杯だった。
帰りに列が短いスーパーを見つけ、並んでいくらかの食料を得る。これはかなり運が良かった。
(どこのスーパーも、商品がいくら買えるのかもわからないのに、ありえない列の長さだったからだ。)
家に帰ると電気が復旧しており、かなりテンションがあがった。電気の偉大さを改めて感じた。
しかしサバイバルしすぎて、どの電気製品を使っていいのか悩んでしまった。
とりあえず電灯をつけてみたら、テンションがあがった。何度かつけたり消したりしてみた。
久しぶりに見る映像つきのニュースはかなり生々しく、痛々しく、悲しくて仕方ない。
昔住んでいた海の近くの町は、ただのガレキの山だった。
テレビの向こう側だった「被災地」の姿も、知っているし経験しているから、今回ばかりはそうはいかない。
今までの災害を見ていた自分が、いかに「わかったつもりでいたか」を思い知らされた。
無論今回だって、家や家族が無事だった私は、
津波の被害にあった地域や、孤立している人々の気持ちを理解することは到底できない。
結局のところ、メディアには感触としてのリアリティはない。文面・絵面だけなのだ。
遠ければ遠いほど、理解などできない。それは、どうしようもない。
この夜、風邪をひいてしまって、リンパ線や喉が痛すぎてほとんど眠れなかった。
父親には未だに会えていない。ちゃんと無事にして、何か食べて、しっかり休んでいるだろうか?
■0315/5日目 風邪、父親の一旦帰宅
体調が悪化すると面倒なことになるので、母に言われた通り、この日はずっと寝ていた。
しかし夕方にチャイムの音がして、5日目にしてようやく父親に会うことができた。
勿論顔は疲れきっていて、声もなんかいつもと違って変になっていた。
3人で大掛かりなところを少し片付けて、あとはすぐに布団についた。
今日だけは父親のうるさいイビキも全く気にならなかった。せめてゆっくり休んでいってください。
■0316/6日目 風邪
雪が降ったので、雪をバケツに詰め込んで、風呂にぶち込んで雑用水を確保した。
父は手持ちの懐中電灯をさらに置いてから、再び仕事に行ってしまった。
友人や姉と少し電話をして、吐き出して少し気持ちが落ち着いた。
給水に行く以外は、あとはこの日も安静にしていた。
母親にも風邪がうつらないか心配。母親は、自覚しているより疲れているはず。
たくさん眠って、もっと休んでほしい。
ポジティブだとか、気晴らしだとか、気持ちはわかるけれど、なんかまだそんな気分にはなれない。
不安や悲しみや無力感ばかり。
私たちは本当に無事で、状況は全然良い方なのだけれど、どうしようもない。
知り合いや親戚などには、まだまだ震災は過ぎ去っていないし、
テレビで知っている場所の映像やダブる状況などを知れば、やはり悲しみは拭えない。
■0317/7日目 雪
風邪はだいぶ良くなってきた。2日安静にしたのが良かったようだ。
朝に一度給水に行くも、かなり寒く、雪も酷いので、今日の外出はなるべく避けることに。
しかしこんな中、復旧作業や援助作業をしている人々のことを思うと、
頭が上がらないというか、ため息が出ずにはいられない。
テレビを見ているとうちの町の断水は今月末まで続くようだ。
こんなこと言うのは贅沢なのだけど、一週間経ち、そろそろお風呂に入りたい、と思ってしまう。
家の復旧の傍ら、時間があったのでブログを書く。
今回の大震災でたくさん思うことや気になる話もあるけれど、
ツイッターにいくらかは書いたりリツイートさせてもらいましたが、なるべくブログには書きません。
より酷い被災地や孤立している地域の、気持ちや状況を理解して協力したいとは思うけれど、
現場が遠い私は、結局リアリティを理解することや直接的具体的に何かすることはできないのだと思います。
原発の話も、物資の輸送の話も、関東の買い占めの話も、計画停電の話も、同じです。
情報も錯綜していますし、人の数だけ物の見方はあるし、見えない事実もたくさんあって、
何を信じていいのかも、何が正しいのかもわかりません。
なのでブログには自分の状況だけを書きました。
私は、あまり被害の酷くない地域の人間は、こんな生活をしています。
地元、大学の友人や先輩や後輩などに会えるのだけを、楽しみにしてます。